創刊時に広報委員会(現?広报室)で編集に携わった谷口将紀先生に、当時の様子を教えてもらいました。キャンパスの一端を切り取ってきたこれまでの表紙を一覧しながら、25年の歩みをご確認ください。
1999年4月、全学の広报委员会に加わったのが、当时助教授の谷口先生です。この顷の広报誌といえば広报委员会が编集を担う『学内広报』。主に学生运动の动向を教职员が共有するため、1969年に生まれた册子です。この媒体が念头にあった谷口先生ですが、第1回委员会では広报委员长の大塚柳太郎先生から意外な宣言がありました。
「学外向けの新広报誌を作る、と。大変そうで担当になりたくないと思っていたら、真っ先にチームに指名されたのが私で&丑别濒濒颈辫;&丑别濒濒颈辫;。国立大学が文部省の一机関だった时代ですが、これからは学外への広报が重要だと言われました」

当时の広报委员长は现在の広报担当执行役に近い要职。新広报誌构想は大塚先生のリーダーシップによるものでした。半年后の创刊を託されたチームは、突贯で作业を开始。巻头は莲实重彦総长の対谈记事とし、お相手には卒业生で前文部大臣の町村信孝さんを提案。懐徳馆での取材は大塚先生が仕切りました。大特集は、学生生活実态调査も活用する形で「东大生のいまむかし」に。誌面には、本郷构内の时计店主や33年间驹场で働いた职员、后に総长となる佐々木毅先生も登场しています。
「元指导教员だったので、すぐに话を闻けたのです。记事も自分で书きました。他の企画も同様で、各委员が身近なところから手作りでした」
誌名については、东大を象徴する名が模索されました。ただ、「赤门」だと驹场や柏が入らない、「银杏」は同窓生组织がすでに使っている、引用する校歌もない&丑别濒濒颈辫;&丑别濒濒颈辫;と决定打は出ず。残ったのがスクールカラーの「淡青」でした。
「他にないからまぁいいか、という感じでした。多忙で大変でしたが、编集を通して自分も知らなかった东大の姿を学ぶことができました」
谷口先生が専门とする政治コミュニケーションの分野では、硬派な话题を人々にどう伝えるかが问题になるそう。健康のため野菜を食べさせるには、焼肉定食にサラダをつけたり、ハンバーグに野菜を混ぜ込んだりするのと似た工夫が必要です。
「大学広報誌も事情は同じ。UTokyo Compassだけでは一般の人の興味は引きにくい。でも、たとえば総长が大谷翔平選手と対談して、あなたのように世界で活躍する人を育てるための指針だと言えば、食いつきもよくなるでしょう」
50号を迎えた今号の特集テーマを伝えると、学生时代に入学式の式辞で、当时の有马朗人総长が、东大には金がないと话したことを思い出したという谷口先生。最后に気になる指摘もくれました。
「『淡青』は、大学のよい部分やきれいな部分ばかりを强调して、悩みや苦しみを伝えきれなかった面もあるかもしれませんね」